『自炊録』第一回 卵を片手で割るために

 

 料理番組やレストランの厨房などを目にすると、ある一つのことがわかる。

 この世には鶏卵を片手で割れる人間が存在するということだ。

 卵を割るという行為は基本的に料理のさいにしか行われないため、卵を片手で割れるということはそれなりに料理に習熟していることの証左だとみなしてもよいだろう。

 料理人があらかじめ用意していた卵を一歩のステップの間に持ち上げ、ぶつけ、割り、フライパンに落とす、殻をゴミ袋へ投げ入れる、というような一連の動きが流れるさまは鮮やかに映る。そういった洗練された動作を見ると、そこへ至る道のりを歩んだ人への敬意と驚きが湧いてくるものだ。そして素晴らしいところに至った先達というのは希望や勇気を与えてくれる。

 

 鮮やかな動きには、僕たちにあこがれの念を抱かせるものがある。

 鮮やかな動きというのはよい。

 人は眠っていない時間のほとんどを、グラスを持ち上げる、冷蔵庫を開ける、便座に座る、といった行為に費やしている。しかしそういった行為のうちのいったいどれだけが鮮やかな動きたりえているだろうか?

 日常生活を振り返ってみると、僕の行為の多くは、コップを倒して飲み物をぶちまける、段差につまずいてケガを負う、タンスの角に脚の小指をぶつける、誘惑に負けて爪を深く切りすぎる、といった風な無様な失態だ。僕が人並外れたドジでない限り、多くの人の生活もまたそのようなものではなかろうか。(そんなある種の人間らしい失態を笑いや安心に変えられる仲間があなたの傍にいるのなら素晴らしいと思う)

 

 無様な行為の反対のものを見たいときはユーチューブが役に立つ。

 紙くずをゴミ箱へと投げ入れるミラクルシュートや熟練した料理人の超絶技巧、あるいはスポーツ選手のスーパープレイといったものがこの手の動画投稿サイトには大量にアップロードされている。そして僕らはそういった瞬間を好きなだけリピートして楽しむことが出来る。これらの動きは驚きや尊敬の念を起こすだけでなく、見ていて直観的に気持ちがいいものだ。無駄のない軌跡は美しく、紙くずのミラクルシュートは偶然や試行回数の産物であるとしても、スゴ技や職人芸といったものには僕たちを喜ばせる性質がある。

 

 先に説明したような、見た人を晴れやかな気持ちにさせる鮮やかな動き、そういうものに僕が目をつけたのは中二病真っ盛りの中学三年生ぐらいの頃のことだ。

 当時の僕は日常生活にあふれる行為のうちで技に出来そうな動きを見つけ出しては磨くということに取り憑かれていて、回せそうなものであればペンでも歯ブラシでもハサミでもなんだって回していたし、誰も見ていないところではムーンウォークやロボットダンスの練習をしていた。さらに言えば、行く手にちょうどいい高さの障害物があれば誰よりも美しいフォームで飛び越えていた。こういった日常の場面で使える隠し芸が周りの人々に驚きや楽しみを与えるのだと信じているのだ。ただ、今ではそういった技は必要な時にしか見せないことにしている。磨いた技は日ごろ見せないからこそ貴重なシーンとなり輝くからだ。

 そして、そうやって会得した技のなかでもっとも実用性に長けていたのが、卵を片手で割ることだった。

 

 当時は「料理ができる男はモテる」という噂がどこからともなく青少年たちの耳に入っていたうえ、ゼロ年代も後半にさしかかっていた中でいわゆる「家族の不在」問題の副産物としてラブコメ作品の主人公たちの家事スキル所有率が目に見えて上がっていた(メジャーな例としては『とらドラ!』や『ニセコイ』などを想像するとわかりやすいかと思う。)。

 そしてそうした環境にいらぬ触発をうけた僕は自炊に手を出すことになる。(この自炊をめぐる格闘はまた別のお話というやつである。)

 何個もの卵をホットケーキや卵焼きに変えて得られた重大な知見は二つ。

 ひとつ目は、卵を片手で割るところを見せる相手がいないこと。

 ふたつ目は、卵を片手で割れるようになっても料理が上手くなるわけではないということ。

 

 かくして僕の青い小技研究は実際の現実というやつの前に無様にも敗北したわけだが、鮮やかな動きへの憧れは尽きることがなく、最近はいざという時のためにスモークリングの練習をしている。

 適切なタイミングで動作が美しい軌跡を描いたなら、その瞬間はきっときらきらと輝き、そして傍にいる人との特別な空間を演出してくれるのだ。

 

 重大な教訓を発表したところで、せっかくなので卵を片手で割るための手順を大雑把に解説してこの記事の締めくくりとしたい。

 

1.まず手に対して横向きになるように卵を持つ。(※そのさい、卵を持つ手と卵が一体になっていなければいけない。指で掌を掻くような一体感である。)

2.卵を持ったら、卵の真ん中あたりを固いものにぶつけてほどよいヒビを入れる。

3.ヒビを入れたら、卵をやさしく握り、ヒビで分断された片側を親指、人差し指、中指で掴み、掌を支点にしてもう片側から引き離す。

 

 以上が卵を片手で割るための大まかな手順だ。僕の文章では何を言っているかわからないかもしれないが、得てしてコツというものは言語化しづらいものであるし、練習を繰り返すうちにあなたの手が教えてくれるだろうから安心してほしい。

 このどうしようもない文章を読んでいるあなたの暮らしにほんの僅かでもにぎわいが加われば幸いである。

 それでは。