『自炊録』第二回 パイナップルを捌くために

 

 みなさんは衝動買いというのをしたことがあるだろうか?

 ある人は高価な衣類を、ある人は上質なオーディオ機器を、ある人は女装用品やジョークグッズを……といったように、人は普段なら手を出さないものを衝動的に買うことがあるようだ。かく言う私も衝動にまかせて妙な買い物をしたことがある。今回は主にそのときのことについて書こうかと思っている。

 私がその奇妙な衝動買いに走ったのは今から数年前の夏らしい暑い日だった。

悪夢から目覚めると部屋は蒸し焼き状態で、気分も寝間着もグチャグチャだった。

 この時期の私は留年へと転げ落ち始めており、諸事情から精神的に参っていたため、寝床を抜け出して日中の活動を始めるには一連のウォーミングアップが必要となっていた。この参っていたことが吝嗇家の私が衝動買いに走った理由の一つでもあるので、このころの生活について少し書くことにする。

 頭の中で自分に喝を入れまくって起き上がり遮光カーテンを引き開けると、パソコンでラジオ体操を流し、一通りこなす。しかるのちキッチンへと向かい、フィルターに山盛りの粉で淹れた一杯のコーヒー、冷水での洗顔、自分の体や顔を叩きまくることと……こういった一連の流れを行う。上に並べたようなルーチンをこなせなかった日には、無気力感や思考の混濁感のために寝床へ倒れ込むことになり、眠れるまでの残り時間を叫んだり自分の身体を叩いたり泣いたりといった反応に費やすことになるのだった。

 ともあれその日はウォーミングアップに成功したのだ。気力を活性化させた私は、家から坂道を数分歩いたところにあるスーパーマーケットへと出かけた。

 当時の私にとって、スーパーマーケットを歩き回ることは趣味の一つだった、と言える。それは自炊生活のためという必要性だけでなく、スーパーマーケットにたいする特別な感情のためにも行われていた。

 私はあるとき、ウィリアム・H・マクニールの『世界史』の上巻を読んでからスーパーマーケットに出かけた。こんにちの文明社会が成り立つまでの果てしない道のりを一望した直後の私の目には、多種多様の新鮮な食材が一挙にならべられたスーパーマーケットの眺めがなんだかとても偉大なものの証のように映り、内臓がひっくり返るような感動の感が湧いたのだ。

 そんな体験をしていらい、私は意味もなくスーパーマーケットの中を長時間歩き回るようになっていた。

 この日、店内を二時間ほど歩き回って疲れ始めたころ、私は偶然にもパイナップルを見つけた。見慣れたはずのパイナップルがどうしてか目に新鮮で魅力的なものに映り、思わず足を止めた。

 観察してみると、鱗に覆われたような表皮には棘状の組織がついており、硬質な葉は反り返って天を衝かんばかりである。パイナップルが持つこうしたフォルムは、見る者に痛快な気分をもたらすように思われる。私の持論によれば、果物の外観には産地の風土がもつ雰囲気が表れることになっているのだが、亜熱帯や赤道近い地域でおおく栽培されるパイナップルは、林檎や葡萄に親しんだ和風の感性からすると色もフォルムもやや奇想天外に映る。その奇抜な印象が、憂鬱や無気力と社会性とのダブルバインドに苛まれていた私を強い力で引き付けたのだ。ついでにつけ足すと、鼻を近づけると甘酸っぱくて爽やかな匂いがする点もポイントが高く感じられた。

 日常には適度な刺激が必要だ! 私は腹に力を込め、勢いまかせにパイナップルを一個ひっつかむと、それを買い物かごに押し込んだ。

 しかしその数日後、私はこの衝動に身をゆだねたことを後悔することになる。

 

 帰り道、私の足取りは少し勇ましかった。運動不足のために胸がどきどきし、パイナップルをダイニングテーブルに置くとなんだか満足な心地がした。

 それからの数日は比較的幸福なものだった。

 朝起きる。するとテーブルには元気なパイナップルがある。

 家に帰る。するとテーブルにはゴキゲンなパイナップルがある。

 本に栞を挟む。するとテーブルには……そう、パイナップルがある。

 こういったことは私をたしかに元気づけ、愉快な気持ちにしていたのだ。

 ところが次第に生活の雲行きは怪しくなりだす。パイナップルはインテリアではなく果物なのであり、食べるか捨てるかしなければ腐らせてしまう。

 そういったことわりを思い出させたのは次第に熟れていくパイナップルが放つ匂いである。甘酸っぱい匂いは日に日に勢力範囲を拡大していた。日ごろはどちらかといえば吝嗇家に括られる私を引き付けたパイナップルも、こうなってしまっては厄介者だった。問題はいつもこういうすれ違いから始まる。そして時間は二人を待ってはくれない。いつもそうだった。

 悩んだすえに勇気を出してパイナップルを捌くと決めた私は、とりあえずそいつをまな板に置いてみることにした。

 大きくてほどよい重さ。葉の部分を含めた全長は私の頭より大きく、横倒しにするとまな板をはみ出した。

 願いましては……。

 適当な包丁を取り出し……いやこの包丁ではダメだ。別の包丁を取り出す。これも違う。これも。これも。

 しだいに混乱が起こって来た。

 目の前の迫力みなぎる果実と日ごろ目にする食べやすい形にカットされたパイナップルとがどうやってもつながらない。不思議である。いったいどんな恐ろしい手順を踏まねばならないのだ?

「ど、こ、ここいつをどうにかしなくては」

 どうにかするという言い回しの曖昧さよ!

 家にあるだけの包丁とパイナップルを卓上に並べて目を泳がせる男、それが私だった。

 私はパイナップルの適切な調理法を知らなかったのだ。そういう人間の目に未知の食材は捉えどころのない意味不明なものとして現れるのだった。

 調理に限らず勘所や具体的な手順といったノウハウは偉大な蓄積の産物だ。ノウハウ抜きに自然と渡り合うのは至難の業である。こうなってはもう途方に暮れるほかない。

 もはやつい十分前までの勇ましい気持ちはすっかり萎れてしまい、けっきょくその日は包丁も自分の体もすべて元の場所に戻して寝た。

 

 つい先日、友人や後輩たちと開いている勉強会であることが話題に上った。

 その日は某詩人のある散文詩を扱った会だったのだが、曰く「詩の読み方がわからない」という。

 会の議論は詩の正しい読み方や詩を読むためのリテラシーがあるのではないかという方向に向かった。私たちは詩を正しく読解するためのノウハウを求めたのだった。

 たしかに、文学作品のなかでも詩というのは形式も多様であるし? 語の用法も小説や評論や新聞とは違っているし? 詩が意味不明なものとして現れるという感想もやむを得ないように思われる? たしかに。……たしかに?

 違和感を持ち帰った私は、ベランダでめちゃくちゃに煙草を吸いながら考え直した。これは奇妙なことだ!

 私たちは正解というファンタジーに取り憑かれている!

 正しい生き方! 正しい読み! 正しい食べ方!

 そもそも言葉や社会といったものは人間による発明であり、それらは時代に合わせて流動変化していくものである(もっとも、神が古代の王に言葉を授けていた場合はこの限りではないだろう)のに、作品の解釈や個別の人生に唯一不変の、絶対の、正解があるなんてことがあるのだろうか……? この世の摂理やものの限界が規定する法則は、ある。内角の和とか、リズムとか、屈折率とか、そういうやつだ。

 ところで、私はいちど階段を登れなくなったことがある! 私の家の前には階段があり、そこを登らなくては玄関にたどり着けない。階段とその登り方を脳と体がド忘れしてしまったかのようだった。私は困った。

 そのときの私は「あれ? あれ? かいだん、ええと……あれえ?」と半笑いで数分考えたのち、どうにか玄関にたどり着いた。ゆっくりと階段に覆いかぶさり、四肢をめちゃめちゃに這わせるという、原始的な解決策である。それまでの私は、セメントでできた深夜の階段はざらざらして冷たいのだとは、想像することはできても知りはしなかった。おそらく、野良猫やカラスはこのことを知っている。

 なぜ突然階段の話などはじめたかと言えば、このエピソードが作品の解釈ということに対して何かしらの示唆を持っているように思われたからだ。

 ……難しげな顔をして、聞きかじりの用語を使って、私たちは詩について議論をかわしたさね。そういうことを繰りかえして私たちは死んでいくね。おそらく誰も、この人間界のルールからは出られずに死んでいくね。そうして辿る末路が人間界の中で洗練・発展するか人間界に居場所を見出せずに破滅するかの二つに一つなのは、それが人間として生きるということだからだろうね。(友人たちよ、どうか、本流と本物を混交することのないように。)

 リンゴの切り方が何通りもあるように読みに唯一絶対の正解はなく、私が生きる意味にも、唯一の正解や客観的な評価基準はない、しかし……というのが今の私の考え方なのだ。

 

 さて、そろそろパイナップルをどうにかしなくては。

次の日の私には秘策があった。インターネットである。

 検索エンジンで「パイナップル さばき方」と打ち込めば一撃である。私は数秒のうちにDole社のページにたどり着き、丁寧に記された処理法を読むことができた。

 ノウハウを得てしまいさえすれば後のことはカンタンである。

 しかるのち、私はちょうどよく熟れて食べごろを迎えたパイナップルを四枚に切り分けた。冷蔵庫に保存すると、分け合う相手もいないので数日がけで独り占めにした。パイナップルを丸ごと一個独り占めにすることは私に妙な満足感を与えてくれたが、それは私がずっと求めている満足感とはまた種類がちがうのだった。

 そうして私はパイナップルのない生活に帰った。

 

 衝動買いからの紆余曲折こそあったものの、私は無事にパイナップルにありつくことができた。そのような技術の習得を繰りかえせば、私もよりたくさんの実りにありつけるに違いない。

 パイナップルに限らず自然界のあらゆるものと和解を繰りかえすことでこんにちの食文化や道具、建築といった領野は開拓されてきたのに違いないし、そう思うと一段ずつ階段を築いて登ってきた偉大な先人たちの足跡を解説してくれる本やインターネットといったものの普及がどれだけ素晴らしいことかは想像に余る。

 衝動買いから数年が経ったいま、あいかわらず人生の意味などなく、空は高く、私には心を預けられる相手がいない。安らげる家庭もない。しかし技術の進歩とリンクして発展してきた大きな歩みを想うと力がみなぎるような感じが起り、家を飛び出してスーパーマーケットへと向かえてしまうのだった。